意識は受動的で、「私」は見つからない。前野隆司さんの動画から非二元を考えてみる

この記事は10分で読めます

「私はいない」ということを体感で感じられてはいるけれど、
どうやってみんなにわかりやすく伝えられるか。
それが難しい所であり、楽しくもあるちぃやんです。

最近はそればかりに意識がいくためか、
こんな動画を見つけました。

 

「意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説」(発表:前野隆司さん)
 
「私達の意識は、自分で何かを能動的に行っているように感じられるが、
実は、そうではないのではないか。(受動意識仮説)」

ということを、実際の実験結果と共に発表してくれています。
 

この動画は前にも見かけたことがあったのですが、
自分という概念にしがみついていた時だったので、
自分がやってるのではないと言われても、身近に感じられませんでした。
 

でも、自分という概念がなくなり、科学的にはわからないけど、
体感としては前野さんが言っていることを同じものも感じるので、
この動画内容を引用させていただき、
私が思うことや、非二元にもつなげて書いてみたいと思います。

 

◆前野さんがこの「意識は幻想か?」の動画で言われていることのまとめ

※最初から最後まで数回動画を見直し、自分なりに慎重にまとめたものですが、
間違っていたり、変な解釈をしていたらごめんなさい。
その場合、コメントなどで教えてくれたらありがたいです。
 

意識は、あたかも自分が行ったかのように命令をするためにあるのではなく、
ごちゃごちゃな無意識を1つの体験にまとめて、
エピソード記憶をするためにあるのではないか。
(エピソード記憶のための機能が、意識ではないか。)

というのが前野さんの主張です。
 

意識がサーチライトを能動的にあてているのではなく、
無意識から結果を自動的にもらってきて、
それを自分がやったかのように思っているだけなのではないか。

ということですね。

 

痛い、うれしい、悲しいなど、面白いことをピックアップして覚えるのがエピソード記憶で、
エピソード記憶ができるから、高度な判断ができるということなんですね。
 

ちぃやん自身に私という概念があった時は、
自分が何かを起こしたり、動いたりしているということを、
疑いもしませんでした。

でも、私という概念が消えてなくなった今、
全てが自動的に起こっているという感覚もあるので
前野さんが言われていることはしっくりはきます。

 
前野さん自身も、体感としては、みんなと同じように、
「自分でやっているという感じがする」ということでした。
 
でも、普通そうですよね。
それは誰もが当たり前に思っている概念というか。
 
自分でやっているかに当然、思えます。

 

意識というのは、実は
無意識の自立分散的情報処理結果に
受動的に注意を向けている。
 
受動的というのは、例えば
無意識のニューラルネットワークがいろいろな活動をしていて、
例えば自分がハチにさされた!
という所のニューラルネットワークが発火すると、
多数決でそれに注意を向けようという感じになる。
 
だから、サーチライトを当てて注意を向けるんじゃなくて、
ボトムアップ的にわきあがってきたものに対して
受動的に注意を向けているということ。
 
あたかもサーチライトを自分で当ててるように見えるけど、
それは幻想であって、それを記憶するためにあるにすぎない。
 

何かをしようと思った時、全部、
意識は命令するためにあるんじゃなくて、
意識はそれを感じて、「私は指をまげようと思った」
ということを体験し、エピソード記憶する存在なのではないか。
 
何かを決めたりしているんじゃなくて、
ただ、記憶するために体験しているにすぎないんじゃないか。
という発想の転換。
 
それを受動意識仮設と呼ぶ。

 
なので意識が、知・感情・自由意志を本当に作り出しているわけではないんですって。

 

しかし、「自由意志」は、能動的であるかのように感じられる。

ということで、

動画の15分からは、知・情・意は受動的・幻想か?
というのを実験とともに説明されています。
 
とても興味深い実験結果なので、ぜひ動画をご覧ください。
 


↑再生ボタンを押すと15分から再生されます。

 
実験内容は動画を見ていただくとして、
結果を簡単に要約すると、

・知(知的情報処理)は、受動的で、人は、主体的に(能動的に)思考していると幻想するようにできている。

・感情というのも、湧き上がる仕組みは自動的で、プログラム的である。

ということです。

 

・そして33分ごろからは自由意志・意図についてです。


↑再生ボタンを押すと33分ごろから再生されます。
 

私は走るぞとか、指を曲げるぞとか、
喉乾いたからジュースを飲みに行こう!という意思決定というのは、
受動的というよりも、意識の上にある自由意志がやっていることだ、
という感じがしますよね。

それは実はそうではないということを実験結果と共に説明しています。

 

筋肉への指令が発せられる瞬間より、
動かそうと意図する瞬間のほうが遅い。
という結果が1つ目の実験。

 
2つ目は、てんかんで左右の脳を切り離す手術をされた方が
被験者になってくれている実験です。
 
左耳から「前へ歩いてください」と言われて前を歩いているのですが、
あなたはなんで歩いているの?と右側の耳から問われると、

「のどがかわいたから、ジュースを飲もうと思って。」

と言ったそうです。
 

前へ歩いてください。と言われたから歩いているんじゃなくて、
のどがかわいたし、目の前にジュースがあったから歩いているんだ。
と、後から理由が自動的に思い浮かんだということですね。
 

な、なに〜。

もしかしたら、こんなふうに私達も、
自由意志でやってるつもりになっているのかもしれませんね。

 

◆自分でやっているつもりになりながら、実はただ感じていればいいだけ。

これらの実験結果から、

意識は、トップダウンで決める偉い人っていうよりかは、
社員がジュース買いに行ってくださいと無意識が決めたものを、
「私が決めたんだ」という感じで体験して
エピソード記憶する存在にすぎないんだというのが受動意識仮設です。
 

「意識って、本当は脇役なのに、主役だと思いこんでいるバカ社長のようなもの。」

なーんてね、みたいに言っていましたが、
それはそれで、人間って愛らしいな、なんて思います。

 

本当は、意識が自分を支配している、というのではなく、
「意識」がすべてをコントロールする従来の心のモデルから、
「意識」は無意識の結果を見ているだけと考える
新しい心のモデル(受動意識仮設)

それは、
「無意識から流れてきた結果を感じてればいいだけ。」

ということです。

無意識から流れてきた結果を感じていればいいというのは、
まさに、私もその通りだな〜と体感しながら生きていますが、

前とくらべて天と地ほどに悩みがなく、まるでそれは、
「個性があるロボットに、意識が与えられただけ。」
という感じもしています。

ただ、その意識自体が、本当にすごいんですけどね。

 
2ちゃんねるの非二元スレッドを読んでいて、
 

人間には全く選択の自由がない。
これが、究極の自由であったとは思いもしなかった。

 
と書かれていたのが、
ハッとさせられる表現でした。
 

◆でも本当は、非二元的な「どちらもある自由」

ただ、ロボットとか、選択の自由がないとか、
そういう書き方をしてしまうと、むなしいとか、
全然自由じゃないじゃん、という感じがするかもしれません。

 
私も、非二元(ノンデュアリティー・悟り)のティーチャーで、
本も数冊出されている大和田菜穂さんが、

「人間には、全く選択の自由はない。」

と言い切っている姿に驚きました。

でも当時、私も自分がいなくなり楽になっていたので、
すんなり受け入れることもできました。
 

大和田菜穂さんの本や、YOUTUBEもいろいろ見たのですが、
「そう言うことで、探求が終わるかもしれないから。」
というところに意識をおかれているようなんですね。
(探求にしがみついている限り、真実が見えないので)
 

真実をはっきりと教えることが、ほんとうの優しさだと思うと。

だから、大和田さんは大和田さんの善意でやっていらっしゃると感じますし、
それもすごく重要な役割で、強さがあるとも思います。

 
でも、まだ自分という概念と共にいる人からしたら、
それってすごくむなしくて、希望なんてないというふうに
感じてしまう人もいるのではないかという気持ちもあって。

 
本当に、本当にそうなのだろうか。

完全に、自由意志は無いのだろうか・・・?

 
確かに物事は勝手に起こってくるけれど、
努力するとか、しないとか、自分で選択している時もあるんじゃないのか?
 
してないんだとしたら、私達はロボットと同じような感じなのだろうか?
 

と、ずーーっと考えたり、
それを考えながら本をたくさん読んでみたり、

もし選択の自由が本当に今ないとして・・・
と思いながら実験的に生きてみたりしてました。
 

最近までの数ヶ月ほど、
果たしてコントロールは完全にないのか。それともあるのか。
じゃあ、未来も全部決まってるっていう事なのか。

などという所に意識を強くおいていた気がします。

 
そう意識しはじめたときは、
UFOキャッチャー(穴に棒を入れられたらGETの台。
穴と棒の大きさがほとんど同じなので、非常に難しいです)
が、「取れることがもう決まっている」ことをなぜかわかっていて。

わかっていながらも、頭では(いやいや、これ難しいだろーw)と思いつつ、
それをやってみると、実際にすぐに「ひげまんじゅう」という
猫のぬいぐるみが取れてしまった。という体験をしたり。

 
スプラトゥーンというイカのゲームで、
試合をするんですが、この試合は勝つとか負けるとか、
勝手に予感が湧いてきて、実際にその通りになるのが続いたりもしました。
 
ヤグラでカウント1までこちらが進んでいるのに、
(後1で勝ちなので負けることはほぼない)
「逆転負けするよ。」という意識が湧き上がって、
実際にそうなった時は、ちょっとぞっとしたり。

 
その、「未来が決まっている」ということを体験し続けている時は、
「えっ?ま、まさかー」って感じだったんですが。

 
本当に決まっているのか?ということを強く意識することで、
もしかしたら、本当に決まっているのを垣間見たのかもしれません。

 

でも、すごく考えてみた結果思ったことは、
「それが完全にわからないから、面白いのかもしれない。」
ということ。

(全部決まってるということがわかっても、
未来に起こること自体がわかるわけではないし、
起こることは一瞬一瞬新しいので、それはそれで面白いと思いますが)

 
人間は、決まっていることを知れたら安心できるところもあるけれど、
何が起こるかわからないから面白いし、生きていける所もある。
 

だから、いいとこ取りで、今の自分に優しくなれるように、
自分で決めちゃってもいいんだ♪って思ったんです。
 

自分がない、私がない、っていうことを、知れたら安心する人は安心していいし、
自分が能動的でやってるんだ!って感じるほうが楽しかったらそれでいい。
 

どちらかわからないという現象がある。
それは、どちらでもあるということとも言える。

だから、それでいいんだ。
 

どちらかの二元の世界ではなく、どちらでもある。
切り離すことができない。が非二元だしねっ。
 

と、私は私で勝手に思ったんです。そうやって。
 

すると、自然に予知体験は起こらなくなっていきました。

 
起こらなくなったからそう思ったのか、
そう勝手に決めたから起こらなくなったのか、
よくわからないんですが、そういう感じで収束しました。
 

今は、本当に「全部が全部」選択の自由がないのか?
っていうのは、わかりません。

 
前野さんの考えと同じように、起こる事は勝手に起こっていて、
それは自分で起こしてるんじゃないっていうのは体感でもわかるけど、

出てきた思いに対して選択をしているんだな〜。
という感覚もあるような感じがしてます。

そして、選択をしていないなと感じる場面も多々ある、という感じですね。

 
2つが同時にあるような気もしますし、どちらか片方だけじゃなく、
2つ同時に体験できる世界に来た、という感じでしょうか(^^)

 
「心臓を、自分が動かしてるんだぞ!」
っていう自覚と自由意志があったら大変なので、
それは無くても良いと思うんですが、(笑)

でも、起こる出来事を自由に選んでいるんだ、
っていう感覚があったほうが、人生面白いですよね。

 
だから、そういう感覚を、必要なところだけ感じられる人間って、
すごいんだなぁ〜って。
 

本当はどっちかが正しいのだとしても、
そういう感覚を感じられるということが、
素敵なことなんじゃないかな。と今は思ってます。
 
生きてる!って感じがしますもんね。(^^)
 

ですので私達がロボットと違うのは、
自分が経験したとか、感情を感じられている、という感覚があること。

自分がやったとか、自分で作った、と感じられること。
 

本当は自分ではやっていないのかもしれないけれど、
意識があるから、それを体験させてくれる。
そして、それを自分でやったかのように感じられる。
 

それって神秘的で、すごいことですね(*˘︶˘*).。.:*♡

 

◆むなしいVS安心、そしてやっぱり「どちらもある自由」

 
前野さんは、

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史

という本を出されている方でもあります。
前野隆司さんの他の本一覧はこちら
 
この本の反響がいっぱいあったそうで、
 
・自分で動かしてないなんてむなしくなる。
・自分ががんばらなくていいなら気が楽になった。
・いや、自分はやっぱり能動的なはず。

という意見がそれぞれ3分の1ぐらいずついると、動画でおっしゃってました。
 

ちぃやんは、自分がやらないといけない。
自分が、多くの人を助けなけくちゃ!
(そうしないと自分には生きている意味も価値もない)
という苦しみに一瞬一瞬、ものすごくとらわれ続けていました。

自分が助けたいは、自分が助かりたいの投影だったりするんですけどね。
 

なので、自分がいないと体感的にわかった時、
安心と平和でいっぱいになりました。
 
私がいない(私という概念がなくなる)ということは、
「自分が無理なことをやらなくていい」という自由ができるということです。

 
全て自然に任せていいと同時に、選べる自由という体験ができる。
 
本当は全く自分が選んでないのかもしれないけど、
でも、今、ここに選んでるように感じられている体験がある。
 

今、自分がいない感覚になってみて感じるのは、
自分がやるんだ!と、自分という概念にしがみついていた時よりも、
はるかに楽で、自由であることです。

 
もちろん今も、しがみついても、しがみつかなくても
どっちでもいいんですけどね。
 
でも自分という概念が消えてなくなると、
その「しがみつきたい自分」というものがいないから、
そういうマインドが起こってこないんですよね。

 

そしてロボットと違って、
次に何が起こるか自分でも全くわからない面白さと同時に、
全てに安心していられる。

 
一瞬一瞬が新しい、でも安心な世界なんです。
 

本当はやっていないのかもしれないけど、

自分が選んだり、決めたり、やっている。
そう感じられるこの存在自体が奇跡なんですよね。

 
やっていないけど、やっている。

どちらかじゃないとダメじゃなくて、
どちらもあるという奇跡。
 

それが、理解できなくてもいい、わからなくてもいい。
わかってもいいし、わからなくてもいい。

 
わからないとダメじゃなくて、正しくなくちゃダメじゃなくて、
 

わかっても、わからなくても、
正しくても、正しくなくても、
どちらでも大丈夫な世界。

それが体感としての非二元・ノンデュアリティーな世界です。

 

◆マインドの世界の延長線上にあるのは、同じマインドの世界

自分というマインドの世界は、
自分にいろいろなものを取り込みたいし、
同化して大きく強くなりたいし、
闘って競争に勝ちたいんだけど、

みんなが本当に求めている、自由で、満たされている世界というのは、
自分というものを拡大させていくという、
その延長線上にあるわけではないんですね。
 

もともとのマインドがない自然な世界の上に、教育上、
マインドをくっつけてくっつけて不自由になっていきます。
 
そして気付いたら、その不自由な世界のほうに強く自分が同化していて。

自然にそうなったからこそ、
「そのマインドの世界の延長線上で幸せになること」
しか思いつかないのが普通です。
 
だからみんな、その世界で
もっともっと一生懸命自分じゃないものになろうとしたり、
何か幸せを求めています。

 
でも、もともとあったものを感じられるためには、
そのマインドを落としていくと、自然に還っていく。
 
今までは、自分が理解しないとダメだと思ったり、
すごい人になれば幸せになるんじゃないか、と感じてきました。
 
でも反対に、自分に一生懸命くっつけ続けてきたものを
落としていくと、自然に感じられる世界があるんですね。
 
今も同時にその世界もあるし、片時も離れていない世界ではあるんだけど、
見えたり感じている強さが、マインドの世界のほうが強いんですね。
 
だから、今も見ようすれば見える自然な世界が非二元だけど、
マインドを落としていくと、より感じやすくなれるのではないかと思っています。

 

◆受動意識仮説は、無我であり、非我である

最後に、前野さんのこの受動意識仮説は、
お釈迦さま、老子さん、荘子さんなどと
意見が同じというところを解説されています。
 

↑再生ボタンを押すとその解説のところから始まります。
 

お釈迦さまが言う、無我と非我。

私はない=無我
・・・私の欲とか、意識とか、そういうのは幻想である。
 
私ではない=非我
・・・私の欲とか、意識とかは、本当は私のではないんだ。
 
という2つが同時に、受動意識仮説に当てはまるということ。
 

老子が言う、

無為自然=すべてなすがまま。
無知自然=知ること、とか欲にとらわれない自然なありかた。
 

そして荘子の言う、

無為自然=すべてなすがまま。
万物斉同=すべてのものはひとつである。=タオという。
私とかあなたとか分けているけど、全部宇宙は一つのものなんだよ。という思想。
 

そうじゃないよーと反論する人もいるけれど、
大きな意味で、意識が自分でサーチライトを当ててるんじゃなくて、
受け取って生きているんだという考え方だとすると、
実は同じような事を言っているのではないかということです。

 

確かにそうだなぁ〜と感じました。
このようにつながると、面白いですね。
 

タオの、「すべてはひとつである」が真実だとしても、
人間はあきらかに1人1人分離して見えるようにできている。

この、どちらもある事実がまたすごいですよね♡

 

◆非二元に対する表現に慎重になっている私です

すっごく久しぶりにちぃやんは、
真面目に授業を受けて、勉強した気がします。w

こんなに真剣に動画を見返したのは久しぶりな気がします。
 
前野さんも最後の最後に、人に伝えることの難しさを言っていましたが、
本当にそうだなぁ〜と感じます。

前野さんの動画と、非二元をあわせて記事を書くということが、
こんなに時間がかかることだったとは〜。w
 
多分、ぜろまいんどの一番最初の記事と同じか、その次に
この記事が時間がかかっていると思います。w
(記事を修正した回数は181回らしいです。ww)
 
自分だけの意見じゃない記事は、それだけでも慎重になりますね。

そして非二元体感歴が数ヶ月の私なので、ますます慎重になっております。
 

非二元の世界と、二元の世界、どちらも体験しているけれど、

この非二元を言葉で表現するのは、
誤解や解釈の違いが生まれすぎる所がある気がして、
いつも以上に慎重になっているちぃやんでした。

 
自由や楽を実感できるのが非二元・ノンデュアリティーなのに、
誤解や解釈の違いで、落ち込んでしまう人ができればでないよう、
できるだけ気をつけたいと思っています。

 

前野さんがいてくれたから、非二元のお話をつなげてすることができました。

前野さんの本、何冊か読ませていただこうかと思っています。

前野さん、面白い授業をありがとうございました(❁´ω`❁)*✲゚*

 



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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神様に聞いた、今世でちぃやんが成すこと

1番目:みんなを楽にすること
2番目:正直な生き方を伝えること
3番目:人と人を調和させること
4番目:神の考えを伝えること
5番目:霊を癒やすこと
6番目:神の存在を伝えること

だそうです(`・ω・´)
毎日話している神様との言葉を書いていきます。

ぜろまいんどで、ちぃやんが大切にしていること

ちぃやんは、一緒に笑いあうのが好きです。

でもそれ以上に、みんなで今に正直に、
自由に生きられたら最高だと思っています。

だからちぃやんと一緒の時は、
感情にフタをしなくて大丈夫です。

あなた自身の気持ちを見つめてください。

私は神様や仲間と共に、心を身体を超え
あなたの魂に還るお手伝いをします。

「今」に抵抗するあらゆるマインドを超えて、
自由な人生を、共に歩んでいきませんか。

みんなが幸せに満ちあふれますよう願っています。

大切な同志&仲間たち

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